trosk’s diary

死んじゃった!夫を亡くした妻のブログ。まだまだ人生やりたいことがたくさんあった。これからって時期にパートナーがいなくなった。それでも生きなきゃいけない。人生って過酷。生きなきゃいけないから前を見たい。苦しいんだけど笑いたい。

時間が唯一の存在証明

ブログの存在をすっかり忘れていました。。

元からマメではない性格でものを書くのも苦手なもので。

 

しかし今日はとても大切な気づきがあったので記録を残そうと思います。

 

ちなみにこのブログを忘れていた3年間、いろいろな細かい出来事はあったものの...基本的に生活は大きく変わらず、旦那さんに話しかけながら30代を生きています。

 

月に一度ミディアムシップの講座を受け、今は上級クラスの2期目に入りまして、なんとミディアムとしての活動をスタートしました。

この3年間で他人の亡くなったご家族とコミュニケーションが取れるまでに成長しましたが、、今のところ旦那の姿は見えず、声を聞くこともできません。でもほんのり気配を感じることができるようになりました。

素晴らしい進歩です。

私も旦那も死別4年生。旦那は幽霊4歳。まだまだ修行が必要です。死ぬまでは引き続きがんばってみます。笑

 

 

さて今日お話ししたいことは

『時間が唯一の存在証明』なのですが...

 

死別以来、日本人〜イギリス人老若男女様々なミディアムシップを受ける中で、幾度も共通して主人から言われてきたことがあります。

 

それが

『時計を身につけて欲しい』

『一緒に時を刻むから』

 

様々なミディアムが共通して、このメッセージを読んで伝えてくれるのです。

もちろん、エビデンスが主人に一致しているのは大前提です。

それに、私はセッションを受ける際、必ず主人が愛用していた時計を持っていってました。

だから時計についてのメッセージがあること自体にはとても納得していました。

 

しかし主人はなぜ時計を"身につけて"欲しいのか?

一緒に時を刻むとはどういう意味なのか?

 

 

私は今までロマンチックな口説き文句かなぁ、また言ってる、と思っていました、笑

主人は帰国子女ということもあってユーモアやロマンチックなところがある人なので。

 

若しくは初めて一緒に買ったペアリングのデザインのコンセプトが『共に時を刻む』というものだったことを覚えていたのだろうか?と。

(きっと覚えていない気がする....)

 

詳しく教えてくれればいいのに、いたずらにシンプルにしか教えてくれないところもまた主人らしいです。

 

 

そして今日ふと、この答えがわかったのです。

 

『時間が唯一の存在証明』

『物質ではなく、時間が存在を証明する』

 

それは、

『ここに肉体があるからあなたがいる』ということではないということ。

逆に言えば

『肉体がないからと言ってあなたがいないことにはならない』

 

では肉体(物質)が存在を証明しないのであれば、何が証明するのか。

 

それはミディアムシップのセッションを幾度も受けた今だからこそわかったのです。

 

『そうか、時間だと!』

 

時間...もう少し深く突き詰めれば

時間と経験の記憶

タイムコード、みたいな感じでしょうか

『その時点でこれを経験した』ということが、そこにいたという証明になるということ。

 

ミディアムシップを受ける時、魂だけとなってしまった肉体を持たない肉眼では見えない彼らは、自分自身がそこにいることをどう表現するかというと、形のない証を説明してくれるのです。

 

それを自分の中にある記憶と照合して、間違いなくあの人だとわかる証が一致すれば、そこにいると納得できる。

 

その証になるのは、生前の外見や好み、どんな性格をしているのか、どんな人生だったか、どんな仕事をしていたか、家族には誰がいて、友達との関係は、趣味は、死因は、亡くなった時の様子は...大抵このようなことを教えてくれれば、人となりがわかります。

 

生きている人間でも

目の前にいない知らない他人の紹介をする時は同じような感じですよね。

 

これは物質ではなく、過去の記憶です。

過去の時間軸の中の記憶がマッチすることでエビデンスになる。

 

そして、それはその時その場に魂が存在していることの証明となりますが...

 

日常生活の中で一緒にいることは、

現在、そしてほど近い過去のピンポイントで起こったことが証になります。

 

例えば

『最近のあの時これがこうなったのを見ていたよ、知っているよ』

『今これに悩んでいて、こんな風にやってみてるよね』

 

こんなメッセージをくれて、そのタイミングと内容が一致していたら...

【過去存在していて、今この場にいる】だけに留まらず、【現在進行形で、そばで過ごしていて見ている】ことの証明になります。

 

同じ時間を過ごしている。

 

そして出来事は、時間軸に刻まれる。

年表のように。

 

そう、これが存在を証明することの種明かしだったとようやく気づいたのです。

 

時を刻む、とかカッコいい表現をするから...!

...ワカラナカッタヨ!

 

3年も意識してなかった...ごめんね旦那くん笑

 

気づいた瞬間、彼のニヤリ顔がパッと近くに浮かびました。

 

得意げに『やっとわかったの〜!笑』と言ってるみたいですが、褒めてくれてたことも感じます😇

 

何かが起こった時に時計を見て時間を覚えておいて欲しいから、"身につけて"って言ってくれていたんだなぁと、ようやく彼の気持ちを理解しました。

 

『自分は今ここにこの瞬間に一緒にいるよ』

『今そばにいるんだよ』

『同じものを見ているよ』

 

そう伝えたいという

彼の強い気持ちだったこと。

 

ようやくわかりました。

死んじゃった彼の方が、伝えられないことが多くてよっぽど苦労してるだろうなと。

試行錯誤しながら、そして彼自身も学びながら、私とのコンタクトを取るために努力してくれてることを感じます。

一緒にいてくれて、伝えてくれて、愛されている。

 

 

改めて、これまで懲りずに伝えてくれていたことを嬉しく思ったのでした。

 

 

ちなみに彼は時々、近い未来のことも教えてくれます。

 

先日本当に『気をつけて欲しい』ということを事前に言われていて、直前まで気づかなかったものの、ここぞという時に『この事か!』と気づいて身の安全を守ることができた、という出来事がありました。

 

霊界は時間の流れが違うらしく少し先の未来も、彼にはわかっているようです。

私が言われたのは1〜2年先のことまで。彼は知ってるよということを伝えたくて、先にヒントになるようなことを言いたがるようです。

 

実際に忘れた頃に思い出すと、エビデンスがマッチしていたりして、『うわ〜旦那くんさすが』と思ったりします。

 

霊界は不思議だらけ。

 

でも、存在することに間違いはない。

これが最も大切な真理です。

 

死後の世界は存在していて、私たちは生きているか、死んでいるか、肉体の有無に関わらず、心の繋がりを持てるんです。

 

 

亡くなってしまったことを悲しく思い、日々の生活がどん底になってしまっている人がいたら、どうか気づいてほしい。

 

どこにも行ってしまっていないんです。

 

今もここにいて、人生の続きを形を変えて過ごしている。

 

絆は永遠です。

同じ時を過ごして、また必ず再会できます。

 

その日まで、修行をするだけ。

お互いに笑顔でお疲れ様ー!と言い合えるように

私は今日も明日も頑張ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久しぶりの記録

忙しくしてると気がまぎれるというか、忘れられる気がする。


現に最近ブログを書くこともなく、涙も少なく過ごすことができた。



でもやっぱり時間が空いてしまうと、引き戻される。



現実は変わらない。



気持ちも変わらない。



前向きになれたように笑ってるように見えても


現実逃避のハイなのだろう。




余計に悲しくなる。




悲しいというか、いないことがやっぱりさみしい。


死んだことってすごくインパクトがあってショックだけど、出来事じゃなくて。


いない時間が寂しすぎる。


せめて、年に一度でもいいから、死者と会える日があればいいのに。




お話ししたい。





だけど、好きでいてもらうためなら少しがんばれるよ。


頑張ってない口だけのやつ、嫌いだもんね。

嫌われたくないから。



元気でなくても寂しくて悲しくてやる気出なくても。。。

笑ってほしいから、元気でいてほしいから、そのために少しだけがんばるよ。

眠剤でもう1人の自分が目覚める?!

驚き。眠剤を飲んで夢遊病にならないようにお酒と組み合わせないでね、とは言われていたが。

 

酒を飲んでいな買ったにもかかわらず

 

起きたら記憶のないメッセージのやりとりがなされていた。

 

 

しかもちょっとハッピーな人格というか、雑な感じというか。

 

自分らしくないおかしな自分。

 

 

 

 

怖すぎる。

生き地獄の意味を知る。

もうすぐ誕生日を迎える。

 

1つ歳をとり、その分、夫から遠ざかってしまう気がする。

 

 

いつ死ぬのか知っていて生きる、なんの使命を背負っているのか知って生きる

目的を果たすために生きる

 

 

どれだけましだろうか。

 

達成できない途方もない目的だとしたら、やはり生き地獄なのだろうが

 

しかしがんばる理由があれば気力が生まれる気もする。

 

 

 

このまま過ごしていたら寿命は80〜90歳くらいだろうか?

あと50〜60年生きなければならないのかと思うとさらに気力が失せる。

なんのために。

 

 

早く会いたいだけ。

死んでも会えないかもしれないけど

同じ世界にいたい。存在するのなら。

 

 

 

忘れたくない、リアルな日常。

一緒に過ごした日々が遠ざかるのがつらい。

また一日、今日も遠ざかる。

そして一年、二年、自分だけ歳をとっていく。

 

果てしなく、いつまで続くのかわからず、ただ待つだけの日々。

 

 

前を向いているつもりだけど、前に何もない。

 

 

いくら明るく元気になろうとしても、立ち戻ってしまう。

現実はここにあって、何もない。

 

 

 

 

安楽死を受け入れてる国に行こうかと調べた。

 

 

だけど、悪い気がしてしまう。命を自分の意思で終わらせること。

この価値観はこの環境で育ったからついたものかもしれない、悪いこととは言い切れないのかもしれない。

 

でも罪悪感を持って死んだらきっと何か気持ちが残ってしまい、すべてが良いようにはいかない気がする。

それから自分が感じた気持ちを家族にまた味あわせるのかと思うととてつもなく申し訳なく感じた。

だから本気では調べられない。自分勝手にはなれない。

 

 

 

 

自分勝手でいたくないけど、でも自分の感情に浸りたい。

思いっきり泣いて叫ぶ場所もなくて。

 

向き合おうにもできない。

 

生き地獄だよ。

 

 

 

死んだら何があるの、それまでどれくらいあるの、何をしたらいいの。

 

どこがゴールなの。

 

 

 

 

 

危篤の電話

半年を過ぎても、鮮明に覚えている。

 

危篤だって 病院に行って という電話

 

病院の電話をタイミング悪く受け取れず、家族から電話を受けた

 

 

危篤 ...

 

 

危篤の知らせを受けてもそれでもまだ生きられると本気で思っていた

 

今でも。

 

 

今でも生きているように思えるし、死ぬキャラじゃないし、危篤になんてなりっこないと思ってしまう。

 

 

死なないと思ってた。

 

心の底から大丈夫だって、安心感があった。

 

 

危篤の知らせを聞いて、向かう間も。

 

 

 

 

ただ

現実が受け入れられてなかったのかな。

 

 

 

今も不思議な感覚が続いている。

 

 

 

死を受け入れるという選択肢

私には夫の余命宣告はいつまでも現実味がなかった。

 

あり得ない。

 

考えもしない。

 

いくら言われても本当に全然そう思えなかった。

 

 

今思えば気力だけでつないでいた命かもしれないが

 

 

治るとしか思えなかったし、治る以外に考えてはいけないと思っていた。

 

 

 

在宅での治療に切り替えて、穏やかな日々を送ることに専念する

という選択肢は思いつきもしなかった。

 

夫に

余命宣告を受けたこと、本当の体の状況を伝えること 

そんなことはあの時はできなかった。

 

 

夫が自分がいなくなった時を恐れていたのを知っているし

口には出さないけど、とにかくとにかく怖かったはず。

 

 

 

治療は辛いけど、治療が効かないほうがよっぽど怖い。

 

悲しませることが怖い。

 

 

意識が朦朧とする中、死んでいくことを知った時どんな思いでいたか。、

 

 

 

それを毎日、病院での治療なしに

良くなる治療、治る治療ではなく、緩和の治療と知って。

今日で最後か、明日で最後か

 

そう考えて日々を過ごすなんて

 

 

 

治る ことしか考えない方がよっぽど心が楽だと思った。

本人も、家族も。

 

 

きっと良い日々を過ごすための選択はそれぞれに違うんだ。

 

私たちには希望を持つ日々を過ごすことが支えになったけど

今日1日を生きることも大切なんだ。

 

 

お疲れ様でした。

全員が頑張ったのですね。

亡くなった夫のことを思い出してくれる友人がいることが心強い

元気?何してるの?

ご飯食べに行けるかな

 

 

よりも

 

故人の思い出を話してくれる方が返事がしやすい

 

心配されてる感、待ってるよ感を出されてしまうと

まだ大丈夫なところまでは達してない、というか

 

ありがたい、嬉しい気持ちをもちつつも

返事がしづらい

 

率直にいうとまだむりです。。。

 

思ってたよりも元気そうだ、とか

返す言葉や見た目で思われたくない、

理解されたくない気持ちというか。

 

 

 

だから故人のことが話題に出るほうがまだ返しやすい、素直に嬉しい気持ちを伝えやすい

 

 

それでも、過去の話なんだ、死んでしまったんだ と実感することに変わりはなく

辛い気持ちになることはなるが。

 

 

ただ気持ちは十分に受け取っているつもりで、じんわりあたたまる気持ちでいる。

でも、言葉にして返すことが難しい。

 

 

 

そんな時です。